大逆事件犠牲者の名誉回復に関する、2011年(平成23年)2月5日付朝日新聞朝刊の記事を紹介します。
大逆事件100年見つめ直す
明治天皇暗殺を企てたなどとして幸徳秋水ら12人が処刑された大逆事件から100年。社会主義者弾圧のために事件の大半がでっち上げられたとされるが、遺族らは偏見の中で沈黙を余儀なくされてきた。1世紀を経た今、犠牲者の名誉回復を求め、事件を現在につながる問題としてとらえようとする人々がいる。
(福井悠介、三島庸孝)
(右) 犠牲者の大石誠之助‥‥‥新宮市立図書館提供 (左) 大石誠之肋の墓に深く頭を下げる二河通夫さん=1月16日、和歌山県新宮市新宮、三島写す
犠牲者、名誉回復の動き
事件で罪に問われた「新宮グループ」6人の中心地、和歌山県新宮市。死刑になった大石誠之助はアメリカやインドに留学した医師だった。帰郷してからは貧しい人に無料で医療を施していた。
1月16日。24口の命日を前に、地元の市民団体「『大逆事件』の犠牲者を顕彰する会」のメンバーや市議ら約30人が、新宮市にある大石たち犠牲者の墓参りに訪れた。
同会会長の二河通夫さん(80)は「新宮では判決直後、不敬な人物を出したことを国に謝罪する大会が計画され、街全体が謹慎する空気になった。遺族にもとんでもない圧力をかけてきた」と話す。
新宮市議会は2001年、6人は冤罪だったとして、名誉回復を宣言した。二河さんらはいま、大石を名誉市民とするよう、市議会に請願している。請願は1月14日に総務委員会を通過したが、議会内の賛否は割れている。3月初めにも開会する定例会で採択されるか、微妙な情勢だ。
年老いた遺族は、偏見の中で長い時を生きてきた。
大石の兄の孫である玉置笛世さん(86)は「大石姓の親戚はみんなよそへいってしまいました。私は姓が違うからいられた」という。
遺族として取材に応じるようになったのはここ数年だ。だが昨年、知人の男性に「あまり大石と言わない方がいい」と忠告された。
新宮市に住む30代の男性は無期懲役になった受刑者のひ孫にあたる。祖母と同居していたが、「事件にかかわることはまったく話さなかった」という。事件と自らのかかわりに気がついたのは、中学の授業だった。「遺族にとっては、権力より、世間の方が怖かったんじゃないか」
事件をどう受け止めるべきか、思いはまだ定まらない。ただ、100年前から突きつけられたままの問いがある、と考える。
「もし誰かが理不尽に攻撃されてる時、どっちの側に立てるのか。それが問われてるんじゃないかな」
「捜査誘導」問題話し合い
幸徳秋水ら命日
幸徳秋水らの命日にあたる1月24日、参院議員会館の講堂で「大逆事件百年後の意味」と題した集会が開かれた。200人ほどが集まり、検察捜査の問題点などを論じ合った。
ジャーナリストの鎌田慧さんは、事件の検事で、後に検事総長や首相を務めた平沼騏一郎らの捜査を「罪の無い人を陥れ誘導する取り調べ」と指摘。「今も同じようなことをしている」と述べた。
安田好弘弁護士は、政界捜査などでの検察の影響力の大きさを指摘。「大逆事件の意味を理解するなら、今の検察の役割を根本的に見直す必要がある」と主張した。
大逆事件
1910年、明治天皇の暗殺を計画したなどとして、幸徳秋水ら社会主義、無政府主義者ら数百人が摘発された。天皇や皇太子らに危害を加えたり加えようとしたりした者を死刑とする大逆罪が初適用され、翌11年1月18日、26人中24人に死刑判決が出た。12人は翌日、無期懲役に「特赦」されたが、12人は1週間後までに処刑された。法的には67年、最高裁で再審請求の特別抗告が棄却された。
朝日新聞 2011年(平成23年)2月5日 土曜日